第八羽【魔途進行】①
ツバサとはぐれてから2日経った。
それだけでアリシアはもう、限界を感じていた。
時刻は深夜零時。日付という概念が厳密化されていない世界で、時計の針はゆっくりと進んでいた。――かに見えた。
「ぁぁあああああぁああぁぁぁぁああーーーーーーーーーーー!!!!」
アリシアは用意していた毛布を少女の口にあてがい、その悲鳴を押さえ込んだ。
少女は藻掻き、身を捩り、必死の抵抗をする。それは果たして何に対しての抵抗か。
毛布を押さえつけられる現状への抵抗か。もしくは、大切な人を見失った現実への抵抗か。
少女はあらん限りの大声で、啼いていた。悲痛な叫びを繰り返す。何度も。何度も。飽きることなく。満たされることもなく。絶えず。ずっと。
それを押さえ込むのは、力尽くで掛かれば難しいことではない。
ないのだが……、どうにも気が進むものではない。
抵抗する少女を押さえ込み、口を塞ぎ、手足を縛り付けて大人しくさせるだなんて。
……仕方ないと分かっていても、心は落ち着かない。
落ち着けようはずもない。
「どうしてしまったというのだ……、キッカ殿」
ツバサと別れてからというもの、菊花の様子は見るからに狂っていった。
最初は些細な違和感かと思っていた。多少の違和感は仕方ないかと思っていた。
しかし、それが余りにも甘い見通しであったと悟るのは日が暮れてからのことだった。
夜泣きが始まったのだ。
もちろん、菊花は子供ではない。年齢は訊いたことはないが、十代後半くらいだろう。そんな少女が夜泣きなど、するものか。
だが、それは起こった。
夜泣きなどという言葉で片付けるべきではないのかもしれない。
それはパニック症状であり、悪夢に魘されているようでもあった。
だが、その程度が異常だった。
手足を縛り付けて、毛布を口に突っ込んで押さえ込まなければ宿を追い出されてしまうだろう。明日は違う宿に泊まらないと、また迷惑を掛けてしまうはずだ。
ベッドは菊花の汗でびしょびしょになっている。綺麗な和服は乱れ、髪もぐちゃぐちゃだ。朝になったら梳かしてやらなければ。
――いや、それだけの余裕すらないだろうな。
菊花はそれだけ憔悴していた。そして、それを見守るアリシアさえも、疲労の影を隠しきれないでいた。
どうにかしてツバサを取り返さなければ、菊花は壊れてしまうだろう。
暴れる菊花を押さえつけながら、アリシアは密かに決意を固めていた。
もはや一刻の猶予もない。ツバサ殿の救出に向かわなければ――!
「……おはようございます」
起きた菊花は、虚ろな眼差しでどうにかそれだけ告げると、身支度を整え始める。今日も捜索の続きを行わなければ……。
しかし、近隣に建物は少なく、人の住んでいる場所や、閉じ込められる場所には限りがある。
二日間で調べた範囲に、ツバサの手掛かりはなかった。
「結局、手掛かりらしきものは、最初に見つけたこの巾着袋だけか……」
袋の中からコロリと、宝玉が転がり落ちる。その玉は地面へ辿り着く直前にボフンと音を立てて変身した。
現れたのは、鳥だ。黄金色をしたニワトリ。……の姿を借りている賢者ルキウスだった。
「……やれやれ。まだ見つからないのかい? 能無しにも程があるんじゃないのかな、騎士殿?」
「……返す言葉もない。力及ばず、済まないな、キッカ殿」
「……いえ……。アリシアさんの所為じゃありませんから……」
憔悴した様子の菊花は焦点の合わない視線を下に向けている。
「だが、これでそろそろはっきりしたはずだ。恐らくツバサ殿は関所にいる」
「もしかしたらその向こう側かもしれないけどね」
賢者が不吉なことを言うので、菊花の顔色は再び曇り始めてしまう。……アリシアは溜息を吐きたくなった。
「ですが、そこにいるのなら今度こそ全力を結集して攻め込むべきです。……行きましょうアリシアさん」
「……いや、気持ちは分かるのだが……」
「おや? ダメなのかい? 騎士サマ?」
「……ダメというわけではない。……ないのだが……」
全力で救出に向かうべきというのは、確かだろう。ありったけの金銭で傭兵を雇い、特攻を掛ければその間隙を縫い、救出の暇を作れるかもしれない。
……しかし、リスクが大きすぎるのだ。
まず、金銭面に余裕はない。逸る菊花が傭兵を雇い、既に何度か特攻を掛けているのだ。その結果傭兵部隊は消耗し、信用も失っている。
次に雇うなら更に大きな額が必要になるだろう。現状、そんなリスクは負いたくない。確実だと断言できなければ、その手はまだ使うべきではない。
そして、菊花の様子もある。
この有様で戦場に駆り出すのは、あまりにも無謀だ。死にに行くようなものだ。そんな行いは騎士として断固阻止したい。
だが、しかし……。
ほかに策がないのも事実。やるしかないのだろうか……。
そんなことを考える際、思わず菊花の顔を見てしまっていたものだから、その想いは賢者に悟られてしまっていた。
「……ああ、やっぱり足手纏いなんだね? 分かるよ。僕も同じ気持ちだから……」
菊花だけが、その言葉の意味に気づかない。否、気づけないのだ。菊花は今、そんなことに気を割く余裕すらない。
「……おやおや、優しい騎士サマには伝えられないのかな? ならば僕から伝えよう。いいよね、騎士サマ?」
きょとんと首を傾げる菊花。アリシアは賢者の暴挙を止めるべきだと思うものの、どうしても踏み出すことができない。
言わなければならなかったのは事実なのだから。だからこそ、それを傍観することしかできなかった。
「……じゃあ、遠慮なく言わせてもらおうかな、キッカちゃん」
鳥が菊花へと向き直る。鳥を直視する菊花の姿はどこか滑稽だが、今のアリシアにはそれを微笑ましく思う余裕すらなく。
「君はさぁ、来なくていいよ。……ジャマだから」
「……え……?」
少女の白い顔に、蒼白な顔に。アリシアは息が詰まりそうになる。
が、賢者は止まらない。言い淀むことすらもない。
「……前から思ってたんだけど、僕は君が嫌いなんだよね。いつもいつもツバサ様ツバサ様って。煩いんだよ」
少女の顔が固まる。アリシアは思わず目を逸らしてしまう。
「ほら、目を逸らしちゃダメだよ、騎士サマ? ちゃんと見て。この無様な従者気取りをちゃんと見てあげて」
胸が苦しい。だが、確かに逸らすべきではないのだろう。きちんと見届けなければ……。
「……大体さぁ、君のやることって、ホントにツバサくんのためなのかなぁ。……違うよね? 君が勝手に判断して、ツバサくんのためだって言ってるだけだよね? ねぇ、それってホントにツバサくんのため?」
呼吸すら、忘れる。痛い。こんなにも胸が痛い。……それは、何故だ……?
「……一度でもお願いされたことって、あった? ないよねぇ? 君が勝手にやったことだよねぇ。それがツバサくんのためって? 可笑しいと思わない? 彼の気持ちを知りもせずに、どうしてそれが彼のためだって言えるのかなぁ?」
それは、嘘ではない、と思う。アリシア自身の気持ちも僅かながら混じっている。
「……それなのに、従者気取りで尽くしたつもりになって、偉そうに胸を張って……。とんだ滑稽な豚さんだよねぇ?」
その、暴虐な発言は、確かにアリシア自身も思ったことのある言葉ではあるのだ。
「ホントは迷惑なんじゃないかなぁ? 鬱陶しいんじゃないかなぁ? 僕は見ていて不愉快だったよ? 自分本位な一方的な親切の押し売りって、実は暴力と一緒なんだよ? ねぇ、知ってた?」
だからこそ、止められない。アリシアには、賢者の暴挙を止めることができない。
「……ホントはお前の自己満足なんだろ? 世話されてるヤツのことなんてどうでも良くて、世話してる自分に酔ってるだけなんだろ? 分かってなかったのかい?」
その棘のある言葉の一部は間違いなく、アリシアの本心でもあるのだ。
「……教えてあげようか? 本当の君はただの大嘘吐きだ。本当のことなんて何一つない。嘘っぱちだけの存在だ。偽物でしかない紛い物だ。粗悪品で不良品だ。ただの障害でしかない。ただの害悪でしかない」
言葉にならなかったアリシアの想いは、賢者により、更に毒のある表現を孕み、飛礫の如く投じられる。
「……僕は真実の探求者だからね。嘘吐きが大嫌いなんだ。君が本性を隠していることも、騎士サマが本心を隠しているのを見てるのも、ね。……だから、僕が訂正するよ。本当の君を証明してみせよう。君は……。君はさぁ……」
アリシアは息を止めていた。僅かでも息を吐けば嗚咽が漏れてしまいそうだから。
「君は自分のことしか見えてない自己中心的人物なんだよ。他人のことなんて知らないし、分からない。理解なんてできない。できるはずもない。いや、しようとすらしない」
ただ、呆然と言葉の雨を受け止めていた菊花がようやく言葉を紡ぎ出した。ようやく、動き出そうとしていた。
「……違います……。私は……ツバサ様のことを想って……」
「そうやって、全部の理由をツバサ様に預けたんだ。そうすれば何も見なくて済むんだろう? 本当の醜い自分を見なくて済むんだろう? そういう思考回路が間違っているとは言わないけれど、僕はそれが大嫌いなんでね、言わせてもらうよ」
「君はツバサ様の所為にして、本当の自分から逃げてるだけだ」
その瞬間、菊花の瞳から宝石のような涙が零れた。
アリシアはそっとその肩を抱いた。
やがて、菊花は子供のようにわんわんと泣き始めた。
そんな光景を一瞥すると、ニワトリは再びガラス玉のような石の姿に戻っていった。
やがて、菊花はぽつりぽつりと語り始めた。
「私とツバサ様が初めて逢ったのは、もっとずっと遠くにいたころの話です……」
to be continued...
Copyright © 2010-2012 Watari All Rights Reserved.
第八羽【魔途進行】①
ツバサとはぐれてから2日経った。
それだけでアリシアはもう、限界を感じていた。
時刻は深夜零時。日付という概念が厳密化されていない世界で、時計の針はゆっくりと進んでいた。――かに見えた。
「ぁぁあああああぁああぁぁぁぁああーーーーーーーーーーー!!!!」
アリシアは用意していた毛布を少女の口にあてがい、その悲鳴を押さえ込んだ。
少女は藻掻き、身を捩り、必死の抵抗をする。それは果たして何に対しての抵抗か。
毛布を押さえつけられる現状への抵抗か。もしくは、大切な人を見失った現実への抵抗か。
少女はあらん限りの大声で、啼いていた。悲痛な叫びを繰り返す。何度も。何度も。飽きることなく。満たされることもなく。絶えず。ずっと。
それを押さえ込むのは、力尽くで掛かれば難しいことではない。
ないのだが……、どうにも気が進むものではない。
抵抗する少女を押さえ込み、口を塞ぎ、手足を縛り付けて大人しくさせるだなんて。
……仕方ないと分かっていても、心は落ち着かない。
落ち着けようはずもない。
「どうしてしまったというのだ……、キッカ殿」
ツバサと別れてからというもの、菊花の様子は見るからに狂っていった。
最初は些細な違和感かと思っていた。多少の違和感は仕方ないかと思っていた。
しかし、それが余りにも甘い見通しであったと悟るのは日が暮れてからのことだった。
夜泣きが始まったのだ。
もちろん、菊花は子供ではない。年齢は訊いたことはないが、十代後半くらいだろう。そんな少女が夜泣きなど、するものか。
だが、それは起こった。
夜泣きなどという言葉で片付けるべきではないのかもしれない。
それはパニック症状であり、悪夢に魘されているようでもあった。
だが、その程度が異常だった。
手足を縛り付けて、毛布を口に突っ込んで押さえ込まなければ宿を追い出されてしまうだろう。明日は違う宿に泊まらないと、また迷惑を掛けてしまうはずだ。
ベッドは菊花の汗でびしょびしょになっている。綺麗な和服は乱れ、髪もぐちゃぐちゃだ。朝になったら梳かしてやらなければ。
――いや、それだけの余裕すらないだろうな。
菊花はそれだけ憔悴していた。そして、それを見守るアリシアさえも、疲労の影を隠しきれないでいた。
どうにかしてツバサを取り返さなければ、菊花は壊れてしまうだろう。
暴れる菊花を押さえつけながら、アリシアは密かに決意を固めていた。
もはや一刻の猶予もない。ツバサ殿の救出に向かわなければ――!
「……おはようございます」
起きた菊花は、虚ろな眼差しでどうにかそれだけ告げると、身支度を整え始める。今日も捜索の続きを行わなければ……。
しかし、近隣に建物は少なく、人の住んでいる場所や、閉じ込められる場所には限りがある。
二日間で調べた範囲に、ツバサの手掛かりはなかった。
「結局、手掛かりらしきものは、最初に見つけたこの巾着袋だけか……」
袋の中からコロリと、宝玉が転がり落ちる。その玉は地面へ辿り着く直前にボフンと音を立てて変身した。
現れたのは、鳥だ。黄金色をしたニワトリ。……の姿を借りている賢者ルキウスだった。
「……やれやれ。まだ見つからないのかい? 能無しにも程があるんじゃないのかな、騎士殿?」
「……返す言葉もない。力及ばず、済まないな、キッカ殿」
「……いえ……。アリシアさんの所為じゃありませんから……」
憔悴した様子の菊花は焦点の合わない視線を下に向けている。
「だが、これでそろそろはっきりしたはずだ。恐らくツバサ殿は関所にいる」
「もしかしたらその向こう側かもしれないけどね」
賢者が不吉なことを言うので、菊花の顔色は再び曇り始めてしまう。……アリシアは溜息を吐きたくなった。
「ですが、そこにいるのなら今度こそ全力を結集して攻め込むべきです。……行きましょうアリシアさん」
「……いや、気持ちは分かるのだが……」
「おや? ダメなのかい? 騎士サマ?」
「……ダメというわけではない。……ないのだが……」
全力で救出に向かうべきというのは、確かだろう。ありったけの金銭で傭兵を雇い、特攻を掛ければその間隙を縫い、救出の暇を作れるかもしれない。
……しかし、リスクが大きすぎるのだ。
まず、金銭面に余裕はない。逸る菊花が傭兵を雇い、既に何度か特攻を掛けているのだ。その結果傭兵部隊は消耗し、信用も失っている。
次に雇うなら更に大きな額が必要になるだろう。現状、そんなリスクは負いたくない。確実だと断言できなければ、その手はまだ使うべきではない。
そして、菊花の様子もある。
この有様で戦場に駆り出すのは、あまりにも無謀だ。死にに行くようなものだ。そんな行いは騎士として断固阻止したい。
だが、しかし……。
ほかに策がないのも事実。やるしかないのだろうか……。
そんなことを考える際、思わず菊花の顔を見てしまっていたものだから、その想いは賢者に悟られてしまっていた。
「……ああ、やっぱり足手纏いなんだね? 分かるよ。僕も同じ気持ちだから……」
菊花だけが、その言葉の意味に気づかない。否、気づけないのだ。菊花は今、そんなことに気を割く余裕すらない。
「……おやおや、優しい騎士サマには伝えられないのかな? ならば僕から伝えよう。いいよね、騎士サマ?」
きょとんと首を傾げる菊花。アリシアは賢者の暴挙を止めるべきだと思うものの、どうしても踏み出すことができない。
言わなければならなかったのは事実なのだから。だからこそ、それを傍観することしかできなかった。
「……じゃあ、遠慮なく言わせてもらおうかな、キッカちゃん」
鳥が菊花へと向き直る。鳥を直視する菊花の姿はどこか滑稽だが、今のアリシアにはそれを微笑ましく思う余裕すらなく。
「君はさぁ、来なくていいよ。……ジャマだから」
「……え……?」
少女の白い顔に、蒼白な顔に。アリシアは息が詰まりそうになる。
が、賢者は止まらない。言い淀むことすらもない。
「……前から思ってたんだけど、僕は君が嫌いなんだよね。いつもいつもツバサ様ツバサ様って。煩いんだよ」
少女の顔が固まる。アリシアは思わず目を逸らしてしまう。
「ほら、目を逸らしちゃダメだよ、騎士サマ? ちゃんと見て。この無様な従者気取りをちゃんと見てあげて」
胸が苦しい。だが、確かに逸らすべきではないのだろう。きちんと見届けなければ……。
「……大体さぁ、君のやることって、ホントにツバサくんのためなのかなぁ。……違うよね? 君が勝手に判断して、ツバサくんのためだって言ってるだけだよね? ねぇ、それってホントにツバサくんのため?」
呼吸すら、忘れる。痛い。こんなにも胸が痛い。……それは、何故だ……?
「……一度でもお願いされたことって、あった? ないよねぇ? 君が勝手にやったことだよねぇ。それがツバサくんのためって? 可笑しいと思わない? 彼の気持ちを知りもせずに、どうしてそれが彼のためだって言えるのかなぁ?」
それは、嘘ではない、と思う。アリシア自身の気持ちも僅かながら混じっている。
「……それなのに、従者気取りで尽くしたつもりになって、偉そうに胸を張って……。とんだ滑稽な豚さんだよねぇ?」
その、暴虐な発言は、確かにアリシア自身も思ったことのある言葉ではあるのだ。
「ホントは迷惑なんじゃないかなぁ? 鬱陶しいんじゃないかなぁ? 僕は見ていて不愉快だったよ? 自分本位な一方的な親切の押し売りって、実は暴力と一緒なんだよ? ねぇ、知ってた?」
だからこそ、止められない。アリシアには、賢者の暴挙を止めることができない。
「……ホントはお前の自己満足なんだろ? 世話されてるヤツのことなんてどうでも良くて、世話してる自分に酔ってるだけなんだろ? 分かってなかったのかい?」
その棘のある言葉の一部は間違いなく、アリシアの本心でもあるのだ。
「……教えてあげようか? 本当の君はただの大嘘吐きだ。本当のことなんて何一つない。嘘っぱちだけの存在だ。偽物でしかない紛い物だ。粗悪品で不良品だ。ただの障害でしかない。ただの害悪でしかない」
言葉にならなかったアリシアの想いは、賢者により、更に毒のある表現を孕み、飛礫の如く投じられる。
「……僕は真実の探求者だからね。嘘吐きが大嫌いなんだ。君が本性を隠していることも、騎士サマが本心を隠しているのを見てるのも、ね。……だから、僕が訂正するよ。本当の君を証明してみせよう。君は……。君はさぁ……」
アリシアは息を止めていた。僅かでも息を吐けば嗚咽が漏れてしまいそうだから。
「君は自分のことしか見えてない自己中心的人物なんだよ。他人のことなんて知らないし、分からない。理解なんてできない。できるはずもない。いや、しようとすらしない」
ただ、呆然と言葉の雨を受け止めていた菊花がようやく言葉を紡ぎ出した。ようやく、動き出そうとしていた。
「……違います……。私は……ツバサ様のことを想って……」
「そうやって、全部の理由をツバサ様に預けたんだ。そうすれば何も見なくて済むんだろう? 本当の醜い自分を見なくて済むんだろう? そういう思考回路が間違っているとは言わないけれど、僕はそれが大嫌いなんでね、言わせてもらうよ」
「君はツバサ様の所為にして、本当の自分から逃げてるだけだ」
その瞬間、菊花の瞳から宝石のような涙が零れた。
アリシアはそっとその肩を抱いた。
やがて、菊花は子供のようにわんわんと泣き始めた。
そんな光景を一瞥すると、ニワトリは再びガラス玉のような石の姿に戻っていった。
やがて、菊花はぽつりぽつりと語り始めた。
「私とツバサ様が初めて逢ったのは、もっとずっと遠くにいたころの話です……」