第八羽【魔途進行】②
自我の萌芽とは、はたしてどの時のことを指すのだろう。
物心ついたとき? 誰かの意見に背いたとき? 一人で生きると決めたとき?
……少なくとも、菊花にとってのそれは、随分と遅く訪れたのだった。
……いや、もしかしたら。まだ訪れてすらいないのかもしれない。
見方によっては、そう言うことだって可能だろう。彼女はまだ、自我を持たないのだと。それもまた一つの真実だ。
けれど、それだけではない。そんな簡単に断言できるようなシンプルな世の中なら、きっと誰も苦しむようなこともなかっただろう。
彼女がこうして、狂うこともなかっただろう。
しかし、狂うという言葉もまた、少し語弊がある。
ある意味で言えば、彼女は初めから狂っていたとすら言える。狂った彼女が、今まではたまたま平静でいられただけだとも言える。
つまりは自然の摂理なのだ。
歯車のずれた時計は正常に時を刻まない。正常であるかのように見えた瞬間があったとしても、それは所詮一瞬の誤魔化しに過ぎない。運命の気まぐれが許されていただけに過ぎない。
結果は明白。分かりやすいくらいに答えは単純に、目の前に突き付けられる。
だが、それを容易く受け入れられる人間はどれほどいるだろう。
その、抗いがたい痛烈な真実に、真摯に向き合える人間が、どれほどいるのだろう。
彼女の真実は、いつも小雨の降る夕景から、始まる。
――幾度目かの悪夢が、繰り返される……。
初めて人を殺したときのことは覚えていない。
ただ、命じられた通りに行動しただけ。失敗したときのお仕置きを恐れて、ただ言われるがままに身体を動かした。
耳障りな断末魔。噎せ返るような血の臭い。視界を塗り潰す緋色の世界。
ただ繰り返されるそれを淡々と見つめていた。何を思っていたのかは分からない。だが、それから目を背けることはできなかった。
自分の行為が招いた風景を彼女はつぶさに観察していた。
赤に染まる憧憬。命じられたままに命を弄ぶ日々。自分の振るう凶刃が、やがて自分へ降りかかる可能性など、考えることもなかった。
身体を走る痛みなど、いつものことだった。取り立てて考える必要もない、些細な日常。ただ作業的に傷の処置を行い、動作に支障がなければ任務に戻る。ただ、それだけのこと。
だが、身体に纏わり付く暖かい感触は初めて味わうものだった。
雨音はするのに、身体には雨の感触がない。
不思議に思って見上げると、そこには傘が立て掛けてあって。
その向こう、噴煙の向こうからあの人が駆け寄ってきて。
彼女はいつの間にか自分の身体に掛けられていた外套からどうにか這い出ると、あの人へ相対した。
あの人は、敵のはずだった。
殺さなければならない相手。そう命じられたことは間違いなく記憶している。――なのに。
「もう、君に悪さを命じるようなヤツは、ここにはいないよ。あとは君の好きなように生きれば良い……」
その言葉は、初めて聞くような柔らかな声音で。
その目は、初めて見るような優しい眼差しで。
その差し出された手は、初めて触る暖かな感触で。
訪れたのは混乱だった。知らない感情。知らない言葉。知らない想い。
それをどう表現すれば良いのか分からず、彼女はただ呆けるようにあの人を見つめ続けていた。
あの人は困ったように肩を竦めていたけれど。
彼女はどうしても、掴んだその手を放すことができなかった。
そこから流れるのは優しい思い出ばかり。
彼女はそれを自我の萌芽と呼んでいた。少なくとも彼女自身はそれを疑ってはいなかった。
だが、胸に渦巻くものは何だ。このドス黒い感情は何だ。
呼吸が苦しい。胸が痛い。頭がざわざわする。気持ちが落ち着かない。
彼を。彼が。彼に。彼と。彼へ。彼は。
どうしたいのだろう。どうありたいのだろう。
何故こうも落ち着かない。何故こうも不安定なのだ。
あの人がいれば彼女は何でもできた。
あの人がいれば彼女は何にでもなれた。
あの人は彼女の中心で、彼女の全てはあの人を中心に回っている。
あの人は、彼女にとって言うなれば太陽だ。
だから、その中心から彼がいなくなればどうなるか――。
――そう、『こう』なるしかないのだ……。
――
少女が肩を震わせて言う。
「私にはツバサ様しかいないんです……。あの人がいなければ、私には……何もない。私はただの、人形と同じになる。……命じられるままにしか動けない、ただの人形に……」
菊花には、今までの覇気がない。元々主張の強いほうではなかったが、如何にも弱々しく、痩せこけた仔猫のようだった。あるいは日陰で枯れ果てようとしている名もなき花のようだった。
ベッドの上で震えるばかりの菊花を一瞥し、アリシアは体内の空気を吐ききるように深く溜息を吐いた。新鮮な空気を吸い、一つの決意をする。
今の菊花は戦わせられない。時間はこれ以上掛けられない。
ツバサを救う。今はそうするしかない。
そのために全力を賭す。それが騎士としての務めである。守るべきものは民であり、それは弱き者を救うために戦うことだ。
例えその道が困難であろうと、守るべき者を放り出すことはできない。ならば征くしかない。これはそういう誓いなのだ。
「キッカ殿は人形なんかではないさ。それを私が証明してみせる。……だから少しだけ待っていてくれないか」
涙目で見上げる少女に、騎士は優しく笑いかける。そんなことでは到底救えないだろうけれど。
それでも僅かばかりの活力を与えられればそれでいい。騎士とはそういうものなのだから。
そっと戸を閉めると、騎士は悠然と戦いへと赴く。守るべき者のため、勇気を振り絞ることこそが自分に与えられた使命なのだと信じて。
菊花を守る。ツバサを救う。
そう決めたは良いが、その具体的な方法は何も考えてはいなかった。
アリシアは闇雲に足だけを運びながら、思考を巡らせていた。
傭兵部隊……は、まだ使うべきではないだろう。というより、今は運用できるような予算がない。
独力でも、無理だ。道中の魔物だけで手一杯になる。関所を護るであろう衛兵たちには対処ができない。どうしても何かしらの秘策が必要だった。
忍び込むような地下道でもないだろうか……。王族たちはそういった隠し通路を使い窮状を脱しているとも聞く。……が、その情報すら掴みようがない。
他に何か手は……。考え、一つだけ思い当たるものがあった。それだけは使いたくない手だったが、今は四の五の言っている場合でもない。守るべき者のためならプライドなどいくらでも捨て去ってみせよう。
そうだ。思い立ってみれば、手はそれしかないように思える。考えれば考えるほどベストな選択だと思われる。となれば、善は急ぐしかあるまい。
大通りに出てしばらく進むと、見たことのある場所へ出る。今まで何度も目にしたことのある風景。
ラグナ要塞は円形の城壁に囲まれた城下町だ。中央を走る中央通り。真ん中にそびえる王城。編み目のように走り抜ける通り道。
懐かしい……、そんな感情が沸き上がる。が、そんなものは胸の奥に眠らせておく。今はそんなことに顔を綻ばせる余裕などないのだから。
王城の脇に立つ、そこそこ立派な屋敷。かつて従軍した際、世話になったことのあるここには、昔なじみの知り合いがいる。だが、勇者と袂を分かった今となっては、少し息苦しさを感じてしまう。
しかし、そんなことに足を止めている場合ではないのだ。なかばやけくそな思いでその巨大な門扉を叩く。
騎士で鍛えた無駄に通る大声が通りへ響き渡った。
「我が名はアリシア=ハーケンローズ! 勇者に会いに来た! 扉を開けてはくれまいか、ライオネル殿!」
扉は、さほどの時間も掛からずに厳かに開かれたのだった。
to be continued...
Copyright © 2010-2012 Watari All Rights Reserved.
第八羽【魔途進行】②
自我の萌芽とは、はたしてどの時のことを指すのだろう。
物心ついたとき? 誰かの意見に背いたとき? 一人で生きると決めたとき?
……少なくとも、菊花にとってのそれは、随分と遅く訪れたのだった。
……いや、もしかしたら。まだ訪れてすらいないのかもしれない。
見方によっては、そう言うことだって可能だろう。彼女はまだ、自我を持たないのだと。それもまた一つの真実だ。
けれど、それだけではない。そんな簡単に断言できるようなシンプルな世の中なら、きっと誰も苦しむようなこともなかっただろう。
彼女がこうして、狂うこともなかっただろう。
しかし、狂うという言葉もまた、少し語弊がある。
ある意味で言えば、彼女は初めから狂っていたとすら言える。狂った彼女が、今まではたまたま平静でいられただけだとも言える。
つまりは自然の摂理なのだ。
歯車のずれた時計は正常に時を刻まない。正常であるかのように見えた瞬間があったとしても、それは所詮一瞬の誤魔化しに過ぎない。運命の気まぐれが許されていただけに過ぎない。
結果は明白。分かりやすいくらいに答えは単純に、目の前に突き付けられる。
だが、それを容易く受け入れられる人間はどれほどいるだろう。
その、抗いがたい痛烈な真実に、真摯に向き合える人間が、どれほどいるのだろう。
彼女の真実は、いつも小雨の降る夕景から、始まる。
――幾度目かの悪夢が、繰り返される……。
初めて人を殺したときのことは覚えていない。
ただ、命じられた通りに行動しただけ。失敗したときのお仕置きを恐れて、ただ言われるがままに身体を動かした。
耳障りな断末魔。噎せ返るような血の臭い。視界を塗り潰す緋色の世界。
ただ繰り返されるそれを淡々と見つめていた。何を思っていたのかは分からない。だが、それから目を背けることはできなかった。
自分の行為が招いた風景を彼女はつぶさに観察していた。
赤に染まる憧憬。命じられたままに命を弄ぶ日々。自分の振るう凶刃が、やがて自分へ降りかかる可能性など、考えることもなかった。
身体を走る痛みなど、いつものことだった。取り立てて考える必要もない、些細な日常。ただ作業的に傷の処置を行い、動作に支障がなければ任務に戻る。ただ、それだけのこと。
だが、身体に纏わり付く暖かい感触は初めて味わうものだった。
雨音はするのに、身体には雨の感触がない。
不思議に思って見上げると、そこには傘が立て掛けてあって。
その向こう、噴煙の向こうからあの人が駆け寄ってきて。
彼女はいつの間にか自分の身体に掛けられていた外套からどうにか這い出ると、あの人へ相対した。
あの人は、敵のはずだった。
殺さなければならない相手。そう命じられたことは間違いなく記憶している。――なのに。
「もう、君に悪さを命じるようなヤツは、ここにはいないよ。あとは君の好きなように生きれば良い……」
その言葉は、初めて聞くような柔らかな声音で。
その目は、初めて見るような優しい眼差しで。
その差し出された手は、初めて触る暖かな感触で。
訪れたのは混乱だった。知らない感情。知らない言葉。知らない想い。
それをどう表現すれば良いのか分からず、彼女はただ呆けるようにあの人を見つめ続けていた。
あの人は困ったように肩を竦めていたけれど。
彼女はどうしても、掴んだその手を放すことができなかった。
そこから流れるのは優しい思い出ばかり。
彼女はそれを自我の萌芽と呼んでいた。少なくとも彼女自身はそれを疑ってはいなかった。
だが、胸に渦巻くものは何だ。このドス黒い感情は何だ。
呼吸が苦しい。胸が痛い。頭がざわざわする。気持ちが落ち着かない。
彼を。彼が。彼に。彼と。彼へ。彼は。
どうしたいのだろう。どうありたいのだろう。
何故こうも落ち着かない。何故こうも不安定なのだ。
あの人がいれば彼女は何でもできた。
あの人がいれば彼女は何にでもなれた。
あの人は彼女の中心で、彼女の全てはあの人を中心に回っている。
あの人は、彼女にとって言うなれば太陽だ。
だから、その中心から彼がいなくなればどうなるか――。
――そう、『こう』なるしかないのだ……。
――
少女が肩を震わせて言う。
「私にはツバサ様しかいないんです……。あの人がいなければ、私には……何もない。私はただの、人形と同じになる。……命じられるままにしか動けない、ただの人形に……」
菊花には、今までの覇気がない。元々主張の強いほうではなかったが、如何にも弱々しく、痩せこけた仔猫のようだった。あるいは日陰で枯れ果てようとしている名もなき花のようだった。
ベッドの上で震えるばかりの菊花を一瞥し、アリシアは体内の空気を吐ききるように深く溜息を吐いた。新鮮な空気を吸い、一つの決意をする。
今の菊花は戦わせられない。時間はこれ以上掛けられない。
ツバサを救う。今はそうするしかない。
そのために全力を賭す。それが騎士としての務めである。守るべきものは民であり、それは弱き者を救うために戦うことだ。
例えその道が困難であろうと、守るべき者を放り出すことはできない。ならば征くしかない。これはそういう誓いなのだ。
「キッカ殿は人形なんかではないさ。それを私が証明してみせる。……だから少しだけ待っていてくれないか」
涙目で見上げる少女に、騎士は優しく笑いかける。そんなことでは到底救えないだろうけれど。
それでも僅かばかりの活力を与えられればそれでいい。騎士とはそういうものなのだから。
そっと戸を閉めると、騎士は悠然と戦いへと赴く。守るべき者のため、勇気を振り絞ることこそが自分に与えられた使命なのだと信じて。
菊花を守る。ツバサを救う。
そう決めたは良いが、その具体的な方法は何も考えてはいなかった。
アリシアは闇雲に足だけを運びながら、思考を巡らせていた。
傭兵部隊……は、まだ使うべきではないだろう。というより、今は運用できるような予算がない。
独力でも、無理だ。道中の魔物だけで手一杯になる。関所を護るであろう衛兵たちには対処ができない。どうしても何かしらの秘策が必要だった。
忍び込むような地下道でもないだろうか……。王族たちはそういった隠し通路を使い窮状を脱しているとも聞く。……が、その情報すら掴みようがない。
他に何か手は……。考え、一つだけ思い当たるものがあった。それだけは使いたくない手だったが、今は四の五の言っている場合でもない。守るべき者のためならプライドなどいくらでも捨て去ってみせよう。
そうだ。思い立ってみれば、手はそれしかないように思える。考えれば考えるほどベストな選択だと思われる。となれば、善は急ぐしかあるまい。
大通りに出てしばらく進むと、見たことのある場所へ出る。今まで何度も目にしたことのある風景。
ラグナ要塞は円形の城壁に囲まれた城下町だ。中央を走る中央通り。真ん中にそびえる王城。編み目のように走り抜ける通り道。
懐かしい……、そんな感情が沸き上がる。が、そんなものは胸の奥に眠らせておく。今はそんなことに顔を綻ばせる余裕などないのだから。
王城の脇に立つ、そこそこ立派な屋敷。かつて従軍した際、世話になったことのあるここには、昔なじみの知り合いがいる。だが、勇者と袂を分かった今となっては、少し息苦しさを感じてしまう。
しかし、そんなことに足を止めている場合ではないのだ。なかばやけくそな思いでその巨大な門扉を叩く。
騎士で鍛えた無駄に通る大声が通りへ響き渡った。
「我が名はアリシア=ハーケンローズ! 勇者に会いに来た! 扉を開けてはくれまいか、ライオネル殿!」
扉は、さほどの時間も掛からずに厳かに開かれたのだった。