天壌命の人間倶楽部


圧倒的な美貌とカリスマを持つ美少女、天壌命は幸薄い少女に興味があるようで……。元々掌編だった話ですが、ちょっと構想が思いついたので急遽シリーズ化。不幸ネタが思いついたら続きます。不定期更新。

第一話"復讐自殺"序文

 ※このお話はフィクションです。

 突然ですが、私は自殺をしたいと思っています。

 さて、どうしてでしょう?

 クスクス。
 さすがにノーヒントじゃ難しいかな?

 それじゃあヒント。特別スペシャル大ヒント。
 
 私は都内の学校に通う普通の女子高生です。
 家庭はそこそこ裕福。父は外資系企業?(よく分かんないけど)に務めるエリート。母はパートで働いています。
 お姉ちゃんは大学生で、そろそろ就職活動とかで忙しくなりそうな感じ。

 なになに、いじめだって?

 こういう文章見ると皆そう思うんでしょ?

 学校には友達はいなくて、話す人もいなくて、家でも家族とは上手くいってないの。
 それで何処にいても辛くて苦しくて、死ぬしかなくなっちゃう。

 よくいるよね~。そういうの。

 バッカみたいじゃない?

 人の意見に合わせられないから浮くんじゃん? ハブられんじゃん?
 で、最後はみっともなく死に逃げんの。

 ありえなくない?

 私ならそんな事しないよ。合わせるのは当たり前の事だもん。
 皆に馴染めなきゃ、それは集団における異物と同じだよ。
 人間の体だって異物は吐き出すように出来てるんだから、社会だってそれと一緒だって、どうして分からないのかなぁ。

 人と仲良くなるコツは、笑顔と同意だよね~。そんなの当然のことじゃん。

 意味分かんなくてもとりあえず頷いとけば簡単に話は転がるのにね~。
 それも出来ないとか馬鹿丸出しじゃん。

 死んだほうがいいよ。

 私はそういう自殺を逃避自殺って呼んでる。
 そのまんまだよね。読んで字のごとく、逃げるために自殺する。

 私だったらそんなことしない。というかそんな事態には陥らない。決まってんじゃん。

 上手く相手に合わせてやれば居場所なんてどうとでもなる。
 特に女の子だったら、笑顔だよね。コレ、最強の武器。あ、ちなみに涙は奥の手ね。
 笑顔が得意な私は、人付き合いで困ったりなんかしない。
 愛想笑い一つで、相手のゴキゲンなんかどうとでもなるんだから。
 だけど、涙はキケン。諸刃の剣だね。
 男の子なら簡単に騙せるんだけど、女の子は鋭いからすぐ見破られちゃう。
 そのあとが物凄くメンドーだから程々にしとかないといけないよ。
 
 馬鹿な娘はすぐに泣き真似して男子を釣ろうとするんだけど、そういうの後で呼び出しくらったりするからね。
 気をつけなよ。

 おっと、話が逸れちゃった。自殺の話だったよね。

 もう答え言っちゃっていいかなぁ。いいよね?

 え~ッ!?

 鬱病とかいじめとかそんなんばっかじゃん!

 ありえないし!

 私ってそんな無様に見られてるのかな~?
 文面だけだと分かりづらいのかもね。

 ホントの私はすごく可愛いし、明るいし、協調性もあるし、優しいし、面倒見もいいし、人気だってあるし、可愛いし(大事なことなので2回言いました)。
 だから本来ならこんな文章書いてるってバレたら、反響すごいと思うんだよね~。

 でも死にま~す! あー、自殺してぇー!

 分からないかなぁ。自殺っていうのはさ、いわゆる一つの自己アピールなんだよ。
 死っていう結末を知らしめるアピールなの。

 それってさ、一つの復讐なんだよね、私にとって。

 そ。まぁつまり表題の通り、私がしたいのは復讐自殺。
 私が死んだ、自殺したって聞いたら皆はどう思うのかな。

 私にしちゃった些細な出来事を思い出して、「もしかしてあの時傷つけちゃったのかな……」なんて思うのかな。
 「もっと優しくしてあげれば良かったかな」、「もっと気にかけてあげれば良かったかな」なんて思うのかな。
 でも残念。そのとき私はとっくに死んでいるのでした!
 ザマァ! マジザマァなんだけど!
 これこそ復讐の快感だよね。
 相手を地獄に叩き落すの。もっとああしておけば良かった、こうしておけば良かった、って何度も何度も後悔させるの。
 何度も何度も何度も何度も。
 絶望させてあげるの。

 マジでいい気味!

 笑いが止まらない!

 お腹痛いやめて! ヒィ!

 あれ? ひょっとして理解されてない?
 なんで私が復讐したいのかまるで理解されてない?

 そいつはちょっといけないなぁ。
 普段愛想良くて、人畜無害そうで優しくて可愛い私だけど、これでもストレスくらい抱えてるんだよ。
 だいたい、面倒見が良い私だけど、そもそも面倒とか見たくないに決まってんじゃん!
 勉強もしたくないし、つまらないヤツの話にいちいち頷いていたくないワケよ。
 マジこいつウゼーとか思いながら、うじうじしてる娘を励ましたりとかしたくないワケよ。
 お前一生塞ぎ込んでろよ! とか言いたいワケよ。
 でも、それは出来ない。

 だってそんなことしたらどうなるか、私には容易に想像できるから。
 「お前にはこの子の気持ちが分からないのか!」とか「どうしてそんな酷いこと出来るの」とか言われるのは明白だからだ。
 そんなことをすれば私は異物だ。邪魔な物でしかない。者ではなく物になる。
 私はそんなヘマはしない。
 人に合わせられる有能な人材だ。

 だけどそれは仮面でしかない。
 偽りの私。

 与えられた役割。決められた動き。いわば人形のようなもの。

 あれ? どっちにしたって物じゃん。おもしろーい!

 とにかく、そうして私は仮面を被り続ける。
 その仮面は誰にも外さない。
 友達にも家族にも誰にも。

 私はひとりぼっちだった。

 この世に住まう誰もが、私の本性を拒絶する。
 私は仮面を被るしかない。

 それが賢い生き方なのだと言い聞かせた。

 私はそれを胸の中で繰り返し続けた。
 本音を押し殺して生きることが最良。
 それが出来ないヤツは惨めにいじめられて醜い自殺をするんだ、と。

 だが、そこに、その生き方の中に、私はいるのか。

 自分の気持ちを押し殺して、笑っているフリをして、それは本当に私なのか。

 ここにいるのは私なのか。
 
 私は自問を続けた。
 答えのない問いに、私はやがてひとつの光明を見出したのだった。
 
 復讐自殺。

 死ねばいい。苦しくて死ぬのではない。居場所がなくて死ぬのではない。
 私の心を殺し続けた家族に、友人に、社会に、問いかける。

 お前らが私を殺したのだ。

 そう、私はとっくに死んでいたのだ。
 私という心はもうとっくに人のものではなくなっていた。
 もう私は人ですらなかった。
 人のフリをする何かだったのだ。

 だから復讐する。

 お前らだ。

 今まで私に役割を押し付けてきたお前らが殺した。
 一人の少女を殺した。
 私を殺した。

 ――この文章を机に忍ばせて、いなくなれば全てが完了する。
 私の復讐は果たされる。
 あとは勝手にお前らが苦しめ。足掻け。そして絶望しろ。

 私を奪った代償を、その人生全てで贖え。



 ――ここまでを書いて、私は手帳を閉じる。
 あとは実行すれば、これは遺書になる。

 だが、私はまだ死なない。

 だってこれが最良の復讐とは限らないもの。

 もっと皆を苦しめる術はないだろうか。
 もっと深い絶望はないだろうか。

 そう思うととても簡単に死は選べない。

 だからこうして、41回目の妄想を綴じる。

 楽しくて仕方がない、復讐自殺はまだ終わらない。

第一話"復讐自殺"前編

 ぱたり。
 彼女はそうして本を閉じる。本革のブックカバーの手記がその手に握られている。
「ねぇ、向笠さん。見て、この本。面白いよ?」
 そう言って、彼女は手に持った手記を見せびらかす。その拍子に、彼女の長い黒髪が一房、肩から艶めかしく滑り落ちる。
 時刻は夕刻5時過ぎ。秋に入り、この時刻は昼間とは打って変わって冷え込んでくる。オレンジ色に染まった旧校舎の廊下は徐々に暗がりに沈んでいく。
 そんな中、逆光を受け、彼女はしんなりと立っていた。
 彼女は美しかった。美しすぎるほどに美しかった。病的に白い肌、整った輪郭、髪はこれ以上ないというくらいに真っ黒で無造作に腰まで伸びている。特別手入れをしているというふうでもないが、妙に艶っぽく揺れていた。声は透き通るように穏やかで落ち着いている。落ち着きすぎていて、どこか背筋を凍らせるような異質な響きを持っている。この世のものでないような、あり得ない美しさを見る者に抱かせてしまう。そんな彼女の名は、天壌命(あまつち みこと)。桃源坂高校2年C組に属する女子高生だ。だが、その美貌はかねてより噂として広がっており、名物を通り越して神仏扱いを受けていた。
 逸話の一つを挙げよう。この小さな街には、大小さまざまな天壌命様ファンクラブが存在しており、そこではさまざまな情報交換がなされている。それこそ、今日の命様は昼ご飯に何を召し上がったとかそんな些細なことから家族構成がどうなっているのか、など。プライバシーなどあったものではないが、天壌夫妻の警察への必死の訴えもむなしく、それらは改善の兆しを見せることがなかった。警察官曰く、容疑者が多すぎるとのことだった。街行く全ての人が天壌命を観察し、崇めていた。それはあまりに異様な出来事だった。警察官からも何人かの信奉者が現れ、事態は混迷化し、今では触れるべからずの事件として形だけの対策本部が残されるだけとなった。
 そんな天壌命は学校では比較的穏やかに暮らしている。多くの観衆の目に晒されても物怖じすることなく堂々と過ごしており、休憩時間では静かに読書をして時間を潰したりしている。周囲の学生は彼女に話しかけることはほとんどない。彼女は、必要があるときには会話を交わしたりもしているが、普段は誰かに話しかけたりもせず、ただページを捲る音だけを鳴らしていた。
 深窓の令嬢であり、信奉の対象である。それが彼女の持つイメージであって、自ら誰かに親しげに話しかける様など誰も見たことはなかったし、誰も見ることはないのだろうと思われていた。
 だが、今。
 滑らかに、嫋やかに、優雅で、美しいその立ち姿を、驚愕の表情で見つめる少女がいた。向笠華恋(こうがさ かれん)という名の少女は、二つの理由で絶句していた。
 一つは自室の机、一番上の鍵付きの引き出しにしまっておいたはずの手帳が、何故か目の前にあったということ。
 そしてもう一つは、その相手が天壌命であったということだ。
「なん……で……? ……どうして……?」
 一切の逡巡すらない。出来たのは、真っ白になった頭で、ただ無様に同じ言葉を繰り返すことだけだった。
 向笠華恋はぶつぶつと、つぶやき続けていた。目は虚ろで、生気が感じられない。
 その様子を、天壌命はじっと、じぃっと見つめていた。その視線に感情は込められていない。嫌悪も、恐怖も、ない。
 やがて天壌はしばらくして、ニィ……、と唇を吊り上げて笑みを作る。天壌の白い顔と、赤い口唇が背筋をふるわせるような美しく寒々しい笑顔を形作っている。
「怖がらなくていいよ、向笠さん。私は、貴女の味方よ」
 天壌は細々と、淡々と告げた。
「私はね、向笠さん。貴女みたいに脆くて儚い女の子が大好きなの。だから私は、貴女を泣かせたりしないし、困らせたりもしない。その証拠にこの本は貴女に返すわ。内容も誰にも喋らない。でもその代わり条件があるの。聞いてくれる?」
 向笠は思考を巡らそうとした。だが、それはちっとも上手くいかない。その理由なら分かりきっている。手記を読まれてしまったからだ。絶対に見つかってはならないあの手記を。自分の中に蠢く黒い衝動を書き溜め、書き殴り、凝縮した門外不出の、本来なら墓まで持って行くつもりだったアレを見られてしまったのだ。あれは現状に耐えきれなくなってしまったとき、遺書として機能すればいい。その時に晒されればそれでいい。その程度のものだった。少なくとも自分が生きているうちは絶対に誰にも見せるつもりはなかった。見られるようなポカもやらかすつもりはなかった。そのつもりで記していた。筈だったのに……。
 どうして見つかったのか。どうして彼女はそれを見つけ出したのか。そしてそれよりも何よりも。
 どうして彼女なのか。
 天壌命。
 圧倒的美貌とカリスマで周囲を屈服させる女。そんな彼女がどうして……。
 言ってしまえば、この街は既に彼女の手に落ちているのだ。彼女が是と言えばそれは是であり、街の民意は全てそれに染まる。彼女にはそれだけの影響力がある。始まりが何であったのかはもう分からない。だが、今この街はそういうふうになっている。この街のコミュニティは全て彼女を中心として動いている。
 彼女に逆らうこと。それ自体が向笠にとって死に直結していた。そして向笠自身、まだ死ぬつもりはない。死ぬときは死ぬときで、きっちり自覚して死にたい。それが向笠の願いだった。死ぬことに意味があるのではなく、死に方に意味を見出す。何故死ぬかではなく、如何に死ぬかが重要だった。だからこそ、ここで彼女に逆らうのは無意味だ。だからこそ、聞く必要があった。彼女が何を求めているのか。
 やがて赤く細い唇が柔らかく動き始める。向笠はその美しい動きに見惚れそうになりながらも歯を食いしばり、その甘美な感覚を意識の外に追いやりながら、話を聞いた。
「あのね、向笠さん。私ね、友達を作るの苦手でしょ? だからね。倶楽部を作ろうと思うの。そこに集まった人とね、仲良くなって、お茶したりできたらな、って思うんだ。だからね、向笠さん。私ね、貴女に、その倶楽部に入ってもらいたいの」
 辿々しいその喋りは、幼い少女のようで可愛らしく、その声は細く弱い。だが、その目は、振る舞いはどうか。彼女は実に色っぽく、蠱惑的に微笑んでいた。喋り方は子供っぽいというのに、一挙手一投足はいちいち大人びていてセクシーだった。そのギャップが何を表しているのかは向笠には見当もつかない。ただ、底の知れない恐怖だけが、そこにはあった。
「お願い、聞いてくれるよね……?」
 小首を傾げ、右手を顎に当てる姿は実に可愛らしく、その所作に遅れて流れる髪が、さらさらと川のせせらぎのように優しく揺れる。
 向笠は赤らんだ顔を押さえ、弛緩していた。沸き上がる感情が何なのか、向笠には分からない。ただ、押さえることは出来そうになかった。留まるだけでも手一杯といったところだったのだ。いいのだろうか、このまま決めてしまっても……。
 そんな思考も出来て数秒だった。やがて首の筋肉は重力にか、誘惑にかはともかく、負けてしまい、顔は一度、上下に動いた。
 果たして、天壌がパァっと花を咲かせたように笑うと、向笠の頬は更に紅に染まった。

 そして2日後、桃源坂高校に新たな部活動が作成され、掲示板に部員募集中!、と書かれたポスターが貼られた。
 そこに書かれた部の名前と、有名すぎる部長の名前に、学生たちは目を奪われることになる。
 その部の名前は――、

 『人間倶楽部』。

第一話"復讐自殺"後編

 天壌命はそもそも人間というものに興味が無かった。
 人間に興味を持てなかったのだ。
 だから、ただ淡々と時間だけを積み重ねるようにして生きていた。
 周囲が羨望の眼差しを向けようと、信奉の眼差しを向けようと、そんなものは関係なかった。
 天壌は何の努力もせずに、何もしようともせずに、ただ自堕落に生きていた。少なくとも本人はそのつもりでいた。
 明確な意志などなかった。目的も存在しない。
 ただ退屈な時間を怠惰に過ごす。それだけだった。
 そんな退屈な日常を壊したのは、向笠華恋だった。
 向笠は実に魅力的な少女だった。
 表面上では明るく快活で、一見普通の女子高生といった風情。
 だが、その笑顔の中には僅かな陰りが垣間見えた。
 気のせいかもしれない。そうとも思った。
 だが、それから気になって、何度か向笠を見ていると、やはり違和感が胸をよぎった。
 彼女の笑顔には裏があるのではないか。そしてそこにある陰りは、天壌にも共通するものだとも思ったのだ。
 分かり合える。天壌はそう直感した。

 退屈を持て余していた天壌は向笠の観察を始めた。
 基本は複数人で過ごしていることの多い向笠だったが、時折一人でいることがあった。
 そんなとき、必ず傍らにあったのが、本革の手帳だった。
 向笠は、時折嗤いながら、時折苛つきながら、必死に何かを書き殴っていた。
 そこには何かしらの強い情念が書き込まれているのだろうと、瞬時に理解できた。
 それからの天壌はその内容を探ろうと必死になっていた。
 しかし向笠のガードは堅かった。授業中、休憩時間中は勿論。体育の授業中でも、彼女は手帳を手放さなかったのだ。
 そこまで頑なに隠そうとする彼女の思いを、天壌はどうにかして知りたい。そう思うようになっていた。
 気づけば天壌は向笠のことばかりを見ていることに気づいた。
 授業中ですら歯止めはきかない。まるで初めて恋した少女のように……。
 そう考え、天壌の身体には電光が走った。
 そうか。これが恋なのだ。これこそが恋と呼ばれる感情なのだ、と。

 愛しい思いは募り積もり、彼女の尾行が始まった。
 少し調べようと思えば、彼女の自宅など簡単に調べられるものだ。
 天壌には多くの信奉者がいたし、今まで便利だからと、彼らに色々と指示をしてきたこともある。
 職員室へ向かい、住所録を見せてもらえば簡単に成果は出るだろう。
 それでも、天壌はあえて尾行をすることにした。
 何よりそれは楽しかったからだ。
 信号待ちをしながら手持ちぶさたに呆けている横顔も。通りがかった女性が散歩していた犬にわしゃわしゃー、と撫でまくる時の笑顔も。歩きタバコの煙をもろに被ってしまっても咽せずに耐えている時の眉間の皺も。
 全てが愛おしい。愛らしい。
 ああ、私はこんなにも彼女を愛しているのだ。なんて想いに、胸は張り裂けそうになる。
 その行動をつぶさに追い続け、天壌はようやく辿り着いた。
 ――ここが向笠さんのお家……。
 二階建ての一軒家。辺りは一等地というほどではないが、綺麗な住宅地だ。クリーム色のレンガが家を小綺麗に飾り立てている。
 通りすがりに見ただけでは、ここはただの一軒家でしかないだろう。 
 だが、ここに向笠が住んでいる。そう思うだけで、そこは観光名所のような特別な場所に感じられた。辺りを行き交う通行人に通行料を払わせたいくらいに、天壌にとって特別な空間となっていた。
 ここで彼女が生活をしている。寝て、食べて、お風呂に入って、暮らしている。そう思うと胸の鼓動が高まり、高まり、どうにかなってしまいそうだった。
 ここに立っているだけで寿命が三年は縮んでしまいそうだ。それくらいに、天壌の胸部では激しいビートが刻まれていた。
 表札に書かれた向笠の文字を見ているだけで、天壌は荒い息を止められなかった。
 身体は限界に近い。だからこそだろうか。天壌はその先を求めた。いっそここで果ててしまっても良い。むしろ本望だ。
 天壌は表札横にあった門扉を開き、敷地内へ侵入する。そしてそのまま回り込み、横手の壁に張り付いた。
 ――確か、向笠さんはこの後、習い事のために外へ出るはずだ。その隙に……。
 ガチャ……。
 都合良く、扉は開かれる。愛しい向笠さんの横顔が通り過ぎてゆく。
 その顔には表情などない。だがそれでも構わない。何を考えていようとそんなことはどうでもいい。
 彼女が愛しい。それだけでいい。
 舐め回すようにその後ろ姿を見つめていた天壌だったが、姿が見えなくなったところで行動を開始した。
 天壌はスカートのポケットから鍵を取り出す。
 ――向笠さんったら、手帳の管理は厳重なのに鍵の管理はずさんなんだもの。……くすっ、可愛いわ向笠さん。
 現物を見ることが出来れば、同じ物をもう一個作ることなど容易いものだ。信奉者の中にも鍵を作れる人間くらいいるのだから。
 鍵を開け、玄関に入ると、一斉に香る向笠家の匂い。天壌はその心地よさに腰が砕けそうになりながらも、なんとか膝を突く。
 ――もう少し、もう少しで手帳に近づけるわ……
 向笠の部屋を探しつつ、天壌はその家を堪能していた。
 興奮のあまり鼻血が滴り落ちてきたので、ティッシュを鼻に突っ込みつつ(信奉者が見れば卒倒物の光景だろうが)、室内を我が物顔で闊歩する。そして……。
 ――見つけたッ!
 『華恋』と言う文字が可愛らしく書かれた札の掛かった扉。この時点で天壌の心臓は高鳴りすぎてズキリと痛みすら催す。
 それでも足は、手は止まらない。
 恐る恐る開けた先には、桃色の空間が広がっていた。全体的にピンクと白系の柔らかいイメージで統一された家具。レースの付いたクッション。でっかいウサギのぬいぐるみ。それはもう、天壌が向笠に抱いていた可愛らしいイメージそのままの部屋だった。
 そして、視線は机へ向かう。
 容易に想像は付く。あの一番上の鍵付きの引き出しに、あの手帳がしまわれている。
 そしてその鍵もすでに手元に作ってある。こちらの管理も甘かったからだ。
 ――というより、家の扉と一緒にくっついていたから、念のため作っておいただけだけど。
 それは功を奏したということだろう。鍵は突っかかることなく刺さり、滞りなく回った。
 そして、その中身は……。
 ――……当然、そうでしょうね。
 中身は空だった。出掛けた際に持っていったのだろう。その可能性は高いと踏んでいた。
 これでは忍び込んだ意味がないのだろうか。
 いや、そうでもない。
 少なくとも、ここまでのルートは確保できた。次回以降の侵入は容易に済むだろう。
 あとは深夜にでも忍び込めばいいだけだ。
 天壌は笑顔を隠しきれないままに、向笠家を後にした。

――

 その後の懸念もないわけではなかった。
 手帳がなくなってすぐに向笠は気づくものかと思われたが、毎日手帳を持ち歩いている訳ではなかったらしく、翌日はそれに気づいた様子はなかったのだった。
 気づいて欲しい。手帳はここにあるのに! そう思っても想いは届くわけもなく、結局、放課後になってから挑発的に彼女を誘い、彼女を脅迫することに成功した。
 結果だけ見れば脅迫は必要だったのかどうか、疑問の残る結果ではある。
 現在、向笠は自ら望んで天壌に従っている。そしてそれは信奉者たちと同等かそれ以上の熱量を伴っているのだ。
 それが天壌が向笠に対して抱いている恋心のような感情と、全く同じものであって欲しいものだ。だが、それは確認しようのないものだ。
 言葉で表せる感情は少ない。天壌の想いと向笠の想い。それらを比較することも並べることも対比することも難しい。
 だから取れる行動は一つしかない。それは信じることだ。向笠を信じ、通じ合ってると信じる。
 結局のところ、そうするしかないのだ。
 ――それにしても……。
 天壌は思う。
 向笠の魅力とは何なのだろう。
 なぜ天壌は彼女にこれほどまでに惹かれているのだろうか。
 彼女が可愛いからか。もちろんそれもあるだろう。だがそれ以上に、天壌を引き寄せるものがあるはずだ。だがそれは何か。
 天壌は考え、一つの仮説を打ち立てる。
 それは彼女がどうしようもなくアンバランスな存在だからではないだろうか。
 だって、天壌は向笠ほどアンバランスで不安定な人間を知らない。
 彼女の心は彼女の手帳を見たことで少しだけ理解できた。
 それは、コミュニケーションを欲しているクセにコミュニケーションを苦手としているということだ。
 それは表面上のコミュニケーションではない。もっと深層レベルへのアクセスを目的としたコミュニケーション能力のことだ。
 彼女は誰より深いコミュニケーションを欲している。だが、彼女は表面的な交流しか出来ず、深いレベルには接することが出来ない。
 本当の自分を理解して欲しい。ありのままの自分を見て欲しい。だがそれがうまく伝えられない。彼女はそのストレスに押し潰されているのだ。
 そして憎んだ。
 全てを憎んだ。自分を解放できずに、本当の自分を殺し続け、そうなった現状を責任を他人に擦り付けた。『お前らのせいだ』。そう書かれていた。
 そんな深いレベルでの交流を望むことは、そこまでおかしいことではないだろう。だが、その実現はとても難しい。
 だからそんな悩みはきっと誰にでもあるのだろうし、皆が思い悩むものなのだろう。
 しかし彼女は耐えきれなかった。それは彼女が人より寂しがり屋だったからだ。
 だから耐えきれずに潰れた。
 今、向笠が天壌に向けている恋慕のような感情はこの辺りが影響していると見ていい。
 たった一人、天壌だけが彼女の秘密を知り、かつそれを受け入れている。
 それが彼女の救いとなっているのだろう。
 ――けれど……。
 同時に思うことがある。
 それは彼女が身勝手な子供である、ということだ。
 何故ならば、深いレベルのコミュニケーションを欲しているのなら、まず相手を知るところから始めるべきだからだ。
 『自分は誰も愛しません。でも私のことは愛してください』。向笠の理屈とはそういうことなのだ。
 彼女が真の意味で幸せを願うのであれば、そこを克服する必要があるのだろう。
 天壌はそこまで考えた上で、彼女を導こうとは思わない。
 天壌にとってそんなことはどうだっていいことだ。
 彼女が本当に幸せかどうかなどということはどうだっていい。
 天壌の望みは、望まれること。
 向笠が天壌を求めていれば、それでいい。
 天壌が向笠を求め、向笠が天壌を求めている。
 その形さえあればいいのだ。それ以外は受け付けない。
 ――向笠さん、貴女は私だけのものよ。……うふ、うふふふ……

 そんなことを考えていると、向笠が声を掛けてきた。
「みこと様、どうかしたの? なんだか楽しそうな顔をしてる……」
 ふと周りを見ればそこは部室で、椅子に座った向笠が上目遣いに天壌を見上げていた。
 その愛らしい表情を愛おしげに眺めていると、向笠は顔を赤らめて視線を逸らした。
「そうね……貴女と一緒に居られるのが嬉しくて。あら、向笠さん、どうしたの? 顔が赤いけど……」
「なんでも、ないです……」
 今度は顔を下へ向けて所在なさげに俯く向笠。
 可愛い。なんて可愛らしい。そんなことを考えながら、天壌は笑みをこぼす。

 ――彼女はもう、私のものだ。


 《第二話"自傷衝動"へ続く――》

第二話"自傷衝動"①序文

 血が、流れていました。
 血が、私の腕を滴り、落ちてゆきます。
 私は、それを眺めています。

 じっと、じぃっと眺め続けます。

 痛みが腕を縛り付けます。
 痛い。とても痛いです。
 でも、まだ足りません。

 もっと。
 もっとください。

 私は、カッターナイフを手首にあてがい、すっと引き抜きます。
 皮膚が、裂けます。血が、出ます。赤い。赤い血が、出ます。

 痛いです。とても、とても痛いです。
 ズキズキと、痛みが身体を走り抜けます。

 これです。この感じです。

 はぁはぁ、と私は荒い息を吐きます。
 そして、そのまま壁にもたれ掛かります。

 ふぅ……。

 昇り切った疲労感に、冷たい壁が気持ちいいです。

 ですが、すぐにそれは焦燥感へと取って代わります。
 これはいつものことなのです。

 いつも、いつもそう。
 もっとメチャクチャになりたいのに。されたいのに。
 そう思って突き立てたというのに、一度は昇り詰めたというのに、私はすぐに満足できなくなります。

 もう一度、もう一回くらいいいかな……。
 あ、やっぱ二回……。ううん、三回。って、だめです私。やめるときはきっちりやめないと。一回。一回ですってば。

 私は、そう思いながらカッターナイフを、ちきちき……と出します。
 刃がギラリと輝いて、私は思わずうっとりとしてしまいます。

 なんて綺麗なんでしょう……。

 私は、ぽたぽたと血が滴るそのカッターナイフの刃を、ぼんやりとした気分で眺めていました。

第二話"自傷衝動"②

 夕日の差す教室で、二人の少女が向かい合っていた。
「はぁ……はぁ……、ミ、ミコト様……は……、早くぅ……」
 栗色の髪をボブカットにした少女、向笠が顔を赤らめて、そう言った。
 ミコトと呼ばれた少女、天壌命は囁くような優しい声で、うん、と返事をした。
 天壌が向笠のほうへ腕を伸ばすと、
「ん……んぅ……あ、ダメです……ミコト様……」
 と、向笠はうろたえてしまう。
 すると天壌はその反応を楽しむように指先を動かしてゆく。
「あ……ダメ……そこはダメです……もっとそっちに……、あ、ひゃぅ……!」
「ふふ……、ここかしら……? それとも、……こっち?」
「あ、いけませんっ! ミコト様! あ、あぁっ……」
 向笠のリアクションを楽しむように指をいじくる天壌。
「ねぇ……、どっちがいいの? 向笠さん」
「あ、ダメ……あと、名前で……呼んで、ほし……あぅ、……んぅ!」
 天壌が向笠の頭を撫でると、向笠は跳ねるようにビクつき、そしてその頭を預けてくる。
「ふふ……正直ね……。あなたのそういうとこ、好きよ、華恋……」
「あぁ……名前……嬉しい……」
 天壌は手を頭から放し、再び正面へと向ける。途端に向笠は息を荒くする。
 まだ触れてもいないというのに、まるでパブロフの犬ね……、と天壌は唇を緩ませる。
「クスっ。ねぇ、どうして欲しいの? お願い、してみてくれる……?」
「あ、あふ……。もっと……右……いやっ! あ、……そっちじゃないのっ! うぅ……そんな……」
 その反応をいつまででも楽しんでいたい天壌ではあったが、いつまでも時間があるわけではないので、その手を核心へと触れさせる。
「ふふ、ここでしょ? 向笠さん……」
「あっ、ダメっ……!?」
 そして天壌は一気にそれを摘まみ上げる。
「あ、あああぁぁぁ……っ!!」
 ぐったりと伏せてしまう向笠。
 その手にはトランプのカードが1枚握られていた。
「ふふ……揃っちゃった。やっぱりババはそっちだったのね……」
「ズルイです……ミコト様……、はぁ……はぁ……。私の反応でカードを当てちゃうだなんて……」
 天壌と向笠は向かい合ってババ抜きをしていたのだった。
 机の上には捨てられた札が乱雑にばらまかれている。
「ごめんなさい……。でも、あなたがあまりにも可愛くって……イジワルしたくなっちゃうの……」
「そんな……ダメです……。ミコト様……はぅ……」
 向笠は甘い吐息を吐いて瞳を潤ませていた。
 天壌はそんな愛しい少女の頬をそっと撫でてやる。
 向笠はその手に擦り寄るように頬を寄せてくる。
 火照った頬は熱く、触れ合うだけで汗ばみそうなくらいだった。
 
 人間倶楽部が設立されて、一週間が経とうとしていた。
 天壌と向笠は、部室代わりに教室にたむろしては、今日のようにトランプをしたりして遊んでいる。
 それは本来の活動とは違うものなのだと、天壌も理解してはいたのだが、向笠と過ごす日々が楽しくて、ついつい遊びすぎてしまうのだった。
 そうして今日も日が暮れ、一日は終わろうとしていた。
 名残惜しくも思いつつ、変化を起こさねばという思いもありつつ、結局こうなってしまった。それは天壌にとって反省材料でもあった。
 そんなことを考えつつも、学生鞄を手に取り、天壌は口を開いた。
「向笠さん、あのね、……ちょっとトイレ行ってきてもいい?」
 天壌がそう告げると、向笠は急に顔を赤く染めて俯いてしまった。一体何を想像したというのだろうか。
 天壌は少し首を捻りつつも、急かされるような衝動が身を駆け抜けるので、思考を切り替えて、「それじゃあ、行ってくるね」とだけ言い残す。
 向笠がわずかに頷いたのを確認し、天壌は教室を出た。
 斜陽に彩られた廊下をパタパタと走り抜け、女子トイレへ。
 そこで、天壌は言葉を失ってしまった。
 そこにいたのは。
 痩せ細った身体に虚ろな瞳。なぜか退廃的な印象を抱かせるよれよれのセーラー服。水に濡れたように艶やかな黒いポニーテイル。
 何よりも彼女を異常たらしめているのはその手。
 ぴちょん……。と、雫が重力に促されるままに落ちてゆく。そして地面で、爆ぜる。
 赤い、花のようだった。
 滴る血液が、狂い咲いた花のように美しい。
 咲く季節を間違えたかのようなアンバランスな姿であり、なおかつ膨大な栄養を与えられ肥大化した花。
 それは醜悪の極みのようでもあって、また美醜を超越した存在感すら放っていた。
 率直に言って。
 天壌は、その瞬間、つい数分前まで一緒にいた愛しい友達のことすら忘れてしまっていた。
 それほどまでに、天壌にとって、彼女は美しい存在だった。
 そんな光景に見惚れ、我を忘れている間にも、時間というものは巡り続けるもので、彼女は天壌の存在に気づいたようだった。
 その顔色から察するに、その胸の内は、恐れ……だろうか。
 唇を振るわし、足元はふらつき、視線は縦横無尽に泳ぎまくってる。
「……あのっ、……そのっ。……えっと……」
 少女は口ごもり、うまく言葉を発せないようだった。
 その声は小川のせせらぎのように透き通っていて、天壌は心が洗われるような気持ちすら沸き上がるのだった。
 なので、つい、呟いてしまう。
「綺麗……」
 その声。その姿。その在り方。
 全てが美しい。
 彼女には儚さがあった。
 触れただけで壊れてしまうような。わずかな汚染で色を変えてしまうような。わずかな衝撃で弾けてしまうような。
 そんな不安定で、刹那的な美だ。
「もっと。ねぇ、もっと綺麗な貴女を見せて……?」
 天壌は凍るような笑顔で、そう詰め寄っていた。
 その胸中は、あの時と同じだ。

 ――ああ、わたしは、この子が欲しい……。

第二話"自傷衝動"③次文

 気づけば私は走り出していました。

 だって。だって。

 見られてしまいました。
 私の秘め事を。

 私はそもそも普通でなければならなかったのです。
 普通であらねばならなかったのです。

 そうあるように望まれて生まれて、そうあるように望まれて育てられてきたのです。

 何事もなく成長し、つつがなく大人になり、そのまま老けてゆく。

 私には、そういう使命が課せられていました。
 そう生きねばならなかったのです。

 ですが、それは無理でした。

 私には出来なかったのです。

 周囲が個に望む形と、個が個に望む形は違うことがあります。
 私もそうでした。

 私は普通であることを望まれていました。ですが、私は普通であることが許容できなかったのです。

 普通に生きる。ということは、周囲の人間と同じように生きる、という意味です。
 どこにでも居るような普通の人間になる、という意味です。

 もちろん、最初は私も普通であろうとしていました。
 普通に人と喋り、普通の点数を取り、普通に学校に通う。

 そんな生活をしている時期もあったんです。

 ですが、それを続けているうちに、次第に私の心の中には、暗い影が差し込み始めました。

 最初はわずかな違和感くらいのものでした。
 しかし、影は段々と姿を濃くしていき、しまいには声まで聞こえるようになってしまいました。

 声は言います。

「お前に、普通に生きる資格があるのか」

 私はその時、背筋が凍り付くのを感じました。

 そうです。私には、そんな資格はなかったのです。

 罪深い私には、《普通》などという恐れ多い幸福を享受する資格などありませんでした。

 私は、恐怖しました。
 自らの過ちに、眩暈すら覚えました。

 私は普通であることを望まれて生まれてきました。

 ですが、

 生まれてくること自体が望まれていた訳ではなかったのです。

 私は本来なら、生まれてくるべきではなかったのです。

 なのに、私は、生まれてしまった。
 生まれてきてしまったのです。

 ごめんなさい。
 謝って済む話ではないですけど、それでも。

 ごめんなさい。

 生まれてきてしまって、ごめんなさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。

 気づけば私は、ノートにそんな文字列を書き込んでいました。

 そして、ノートが滲んでゆきます。

 ぽたり。

 次々と溢れてくるものを、私は懸命に拭います。
 それでも、それは止まってくれません。

 私は罪深い人間です。

 生きていてはいけないはずなのに、自ら死を選ぶことは許されていなくて。
 死ななきゃいけないはずなのに、生きていなければならないのです。

 こんな身体を流れる血液など、枯れ果ててしまえば良いのに。

 こんな穢らわしい人間など、死んでしまえば良いのに。

 なのに、死ねない。

「ごめん、なさい……」

 誰も居なくなった教室は、静かでした。

 ひんやりとした机の感触が、火照った身体を労るように優しく冷やしてくれました。

第二話"自傷衝動"④

 天壌にとって、他人に関心を抱いたのは二度目だった。
 一人目は、向笠華恋。不器用で甘えんぼで、そして人一倍慎重な彼女は、その友好関係がめっぽう広く、めっぽう浅い。
 そのために誰の傍にいても孤独を感じてしまう。
 適切な距離感を保てず、近づかれることに極度に緊張する彼女は、親友もいない。
 そんな彼女こそが、天壌にとっては重要だった。
 彼女の状態を知れば知るほど、その精神状態の危うさを識れば識るほど、天壌は彼女を愛しく感じていた。
 きっと、私が手を差し伸べねば、この子はどうにかなってしまうのだろう。……いや、もう、とうにどうにかなってしまっているのかもしれない。そう思うと、天壌は自然と笑みがこぼれる。
 彼女が《私のもの》だと、そう認識できるからだ。
 そうであれば、彼女は天壌を欲するだろう。
 天壌だけを欲するようになるだろう。
 向笠は、天壌無しでは生きていけなくなるだろう。
 最終的には、そこまで堕ちて欲しい。
 どこまでも、どこまでも深く。二度と立ち上がれないほどに深く。
 彼女を自分だけのものにしたい。
 天壌はそんな想いで人間倶楽部を設立した。
 天壌が愛する人間を観察、保護するための倶楽部活動。それこそが人間倶楽部なのだから。
 だが。
 今までは向笠と出逢うまで、ついぞ見掛けることのなかった美しい少女が、またも天壌の前に現れたのだ。
 女子トイレに立ち竦む、片手から血を滴らせた少女。
 細く不健康な体型。病的に白い肌。小さい身体によれよれのセーラー服。
 きゅん、と胸が疼いた。
 思うほどに焦がれた。想うほどに焦がれた。
 赤く滲んだ傷跡が思い返される。
 天壌は漏れる吐息を殺すようにして、足を進めた。タイルが乾いた音を鳴らす。
 角を曲がる。そこには。
 目を見開いた彼女がいた。
 天壌は背筋を凍らせるような美しすぎる微笑を浮かべながら、一歩だけ彼女へ詰め寄った。
「みぃ~つけた。あなたを、探してたの。……硫崎茉水(りゅうざき まみず)さん」

第二話"自傷衝動"⑤次々文

 ぴちゃり。

 そんな音が、トイレに谺していました。

 私は肌を滑る柔らかい感触に、どうにもこそばゆく感じてしまい、歯を食いしばるようにして堪えていました。

 そんな心情を理解しているかのように、彼女は舌を滑らせながら呟きます。


「いいの。恥ずかしがらないで……。もっと、あなたの、声を……、聴かせて……?」


 つつー……っと、私の指の間を、柔らかいものが通過してゆきます。私は堪えきれなくなって、思わず声を出してしまいました。


「あっ、やっ……、ん…………」


 必死に堪えていると、彼女は上目遣いに視線を上げてきます。

 ああ、なんて綺麗な瞳なんでしょう。

 よく、綺麗な瞳のことを、吸い込まれそうな瞳、などと表現することがありますが、そんな大げさな現象は実際そうそう起きはしないでしょう。
 ですが、この、彼女の瞳であれば吸い込まれそうになるのも分かる気がします。

 この瞳になら、私はいくらでも吸い込まれてみたいものです。

 夜のように綺麗で、静かで、その深淵は一向に見えそうにありません。
 その深みがそのまま、彼女の心の深さを表しているようで、その神妙な表情が、私の思考能力を奪います。

 瞳だけではありません。

 彼女の触れる指は冷たく、私の腕を掴んでいます。
 見るからに細い腕です。全力で振りほどこうと思えば、いくらでも振りほどけるだろうと思うのですが、そんな気は微塵も起きません。

 私の指を拭うその舌は、腕とは正反対に温かいです。
 指の一本一本を執拗に舐められ、思わず身体が火照ってしまいそうなほどです。


 ちゅぷ……っ。


 水音が響きます。

 その光景はどうしようもなく淫靡で、なのにちっとも不快ではないのです。
 彼女の舌が指先をなぞるだけの、ゆったりした時間が流れていました。

 さて、そもそもどうしてこんな事態になっているんでしょうか……。

 私は少し、夢心地のような感覚の中、思考を巡らせていたのでした。

第二話"自傷衝動"⑥

 時間は僅かに遡る。
 それは、天壌と硫崎が二度目に出逢った時の話。

 硫崎は女子トイレでいつものように自傷行為に至っていた。
 見られてはまずいと思いつつも、その衝動は抑えきれず、また、人通りの少ないこの廊下の隅にあるトイレは学校中を探しても一番の穴場だった。
 散々さまよい、迷ったあげく、結局またここへ帰ってきていた。
 以前はあまりにも堂々と洗面台の前に突っ立っていたのが問題だったろう。
 ならば個室の中ならば、平気だ。
 そう思って。
 硫崎は、その個室を選んだ。
 一番奥の、その個室を。

 天壌はこう見えて行動派だ。
 というのも、今まで衝動的に何かをしてきたことはなかった。
 ただ漫然と生きているだけで、全てが手に入った。
 全てを他人が与えてくれた。
 欲しい。そう言えば良かった。それだけで全てが済んだ。
 そんな生活を続けていく内に、いつしか神経は摩耗していった。
 磨り減っていったのだ。
 おそらく、人として重要な、何か大切なものが。
 失くしてはいけないものを。いつの間にか手放していたのだ。
 その所為だろうか。
 天壌が求めるこの欲望は、猛烈に膨れあがっていた。
 今まで、何も抱くことのなかった焦燥感にも似た衝動。
 天壌はそんな気持ちを抱いたことは今までに一度もなかったのだ。
 それゆえの反動のように、ダイエット直後に盛大にリバウンドしてしまうのと同じような感覚で。
 天壌はその衝動に突き動かされてしまうのだった。
 我慢など出来ない。その仕方すら分からないのだ。こればかりはどうしようもない。
 気持ちが求めるままに。衝動が望んだままに。
 天壌は即座に行動をした。
 せざるを得なかったのだ。
 一日で分かった。分かってしまった。
 彼女が誰で。どういう人物か。
 家は学校から電車で二駅の霧林ニュータウン、家族構成は両親、姉との四人暮らし、朝起きる時間は6時40分、朝食は主にハニートーストとダージリンティー、気分に合わせてレモンティーも嗜む。学校ではあまり話さず、成績は上の下。得意科目は国語、生物、保健、家庭科。苦手科目は物理、体育。所属部活動なし。遅刻、忘れ物はなく、担任の評価は高い。ただし、欠席、早退が稀にあり、やや心配を掛けている。友人らしい人物はおらず、休み時間は大抵ひとりで本を読んでいる。学年は一年生。セーラー服はサイズがSサイズだが、それでもぶかぶか。身長142センチ、体重35キロ、体型痩せ形、胸のサイズは控えめ、髪の色は黒、長さは腰下15センチ、肌の色はかなり白い。やや病弱な体質で、蕎麦、花粉にアレルギーを持つ。利き腕は右。視力は両眼ともに0.7。足のサイズは21センチ、愛用するソックスは黒色。学校の指定鞄にて登校。よく転ぶらしく、身体にはよく包帯を巻いている。学園外ではワンピースを好んで着ている。帰宅後は自室にて勉強か読書をして過ごし、7時30分に姉、母親と食事を摂り、姉、母、硫崎の順にお風呂に入り、およそ10時に床に就く。父親は帰ってこないことが多い。家族は母と姉はよく会話を交わしているが、硫崎にはほとんど話は振られず、基本沈黙を保っている。
 聞き込みと実地調査だけで、おおよそこの程度までは把握していた。
 もっと時間を掛ければ更に細かく調べ上げられるだろうが、そこまで掛けるのは正直、時間がもったいないところだ。
 放課後。あらかじめ早退をしておいて時間は充分に余っている。向笠が少し寂しそうに見つめていたので、少し後ろ髪を引かれる思いだが、今大事なのは硫崎だ。ここは苦渋の選択だが向笠ならきっと分かってくれるだろう。天壌はひとり、そう納得するのだった。
 硫崎の行動パターンもある程度は解析してある。だが、安全な個室トイレを探すなら、やはりここしかないだろう。
 血を拭える水道があり、個室があり、人通りも少なく、自分にとっても馴染み深い。
 これだけの要素があれば、一度天壌に目撃されたとしても、またここへ来るだろう。
 そう思いながら、トイレへ侵入し中を確認する。
 一番奥の使用中の個室。わずかに漏れる吐息。
 思わず高鳴る心臓を押さえつける天壌。
 ――だいじょうぶ……。確かにすごい、どきどきしてるけど。でも、聞こえるわけない……。
 一歩。踏み出した足を身長に地面に下ろす。
 行為に夢中になっているとは言え、物音を立てればさすがにバレる。
 バレたところで逃げ道など何処にもないのだが、可能な限り気取られたくはない。
 何故なら、このためにひとつの罠を仕掛けておいたのだから。
 そうして、亀のような動作でどうにか個室の前に辿り着いた天壌は、念のため一歩遠ざかっている。足下が見えてしまう可能性があるからだ。
 そこから。
 一歩踏み出し、戸に手を掛ける。
 もちろん鍵が掛かっている。
 だが。
 さらに押し込むと扉がぐい、と動き始める。
 同時にカラン、と渇いた音が鳴り響いた。
 そう。あらかじめネジ穴を緩めておいたのだ。普通に使えば使えるけれど、強く押し込めば外れてしまうような、絶妙な加減で固定しておいたのだ。
「ひぅッ!」
 その時、個室から可愛らしい悲鳴が上がる。
 その声が、天壌を昂ぶらせる。
 自然、呼吸が荒ぶる。
 天壌が更に歩を進め、扉を押し込むと、そこには、血を垂らし今にも泣きそうな表情で佇む硫崎茉水の姿があった。

「みぃ~つけた。あなたを、探してたの。……硫崎茉水(りゅうざき まみず)さん」

第二話"自傷衝動"⑦次々々文

 もう、日は暮れ始めていました。

 茜色に染まる女子トイレの個室に、私と彼女が収まっていました。

 二人とも体格は小さめなせいか、それほど窮屈ではありませんでした。
 とはいえ、もちろん充分な広さがあるとは言いがたいところです。

 つまりは、狭いのです。

 しかし、狭苦しい、というような苦痛を覚えるような心境ではありません。
 それは何も私が閉所を好む習性だからだとか、そんなオチではありません。
 それどころか、密着するように寄り添い合う二人は体温のせいか、少し熱気を帯びてすらいます。
 ともすれば、汗ばんでしまうような、そんな環境に置かれながらも、私は一向に不快感を感じていないのです。

 それは何故か。

 答えは、何と言いますか。あまりに滑稽と言うべきか。荒唐無稽と言うべきか。はたまた奇妙奇天烈とでも言うのでしょうか。
 とにかく、そこは、満たされていたのです。

 彼女の匂いが。彼女の温もりが。
 彼女の鼓動が。彼女の息遣いが。

 まるで彼女そのものに包まれているかのような、彼女の濃密な気配。

 そんなものが私の周囲を満たしていたのです。

 言うなれば、私はそれで、満たされてしまっていたのです。

 彼女で満たされた空間で、私の心は満たされていたのです。

 右を見ても左を見ても、皮膚はその温もりを感じ取ってしまう。
 鼻を塞いでも、視界には彼女が映る。
 目を閉じても、息遣いは耳に残るし、僅かに身じろぎするだけで手足は彼女の身体に触れてしまう。

 どう足掻こうと防ぐことの出来ない高揚。
 逃げ場のない昂ぶり。

 そんな中、彼女は、口を開く。

 先程まで、私の傷跡を舐っていた舌を。その唾液に濡れた舌をチロリと揺らして微笑む。


「ねぇ、硫崎さん……。ずっと、私の傍にいてくれる……?」


 そんな。
 そんな甘い声で。甘い言葉を。甘い表情で言われては。

 私には抗う術などありませんでした。
 いえ、……私には、そんな気概は既にありませんでした。

 彼女が望むのであれば、私はそれを望んで差し上げたい。

 彼女が欲するのであれば、それを捧げることはなんだって苦にならない。

 もらって欲しい。奪って欲しい。
 受け取ってもらえるのなら、私は何だって明け渡したい。

 私は、そんなふうに、考えていた。

 何処か脳味噌が麻痺してしまったような、倒錯した感覚。
 恋という名の魔法。……いや、違う。

 まるで、それは……。

 魔法という名の恋なのかも知れない。


 ……、なんて、馬鹿げたことを考えながら、私は特に悩むこともなく。
 痺れたように火照る顔を、僅かに上下に動かすのだった。

第二話"自傷衝動"⑧

 夕景を背にして、硫崎は囁くような小声で呟いた。
「こんなふうに求めてもらえるなんて、夢のようでした。……でも、やっぱりそれは出来ません」
 一度は頷いて見せたものの、今度は首を横に振った。
 何故。どうして。
 天壌は憤ったように歯を食い縛り、けれど、その思い詰めた顔色を窺い、そっと力を抜いた。
 諦めたように、挫けたように、硫崎は儚い微笑を作っていた。
 それで天壌は気づいてしまう。
 ――そうだ。これだったのだ。
 自分が惹かれていたのは、自傷する幼気なところではなかった。傷口から血を垂らすミステリアスなところでもなかった。
 本当に惹かれていたのは、そんな表面的な部分ではなかったのだ。
 言うなれば、それは振る舞いにあった。
 硝子細工のように脆く、危ういその精神性。
 日差しを遠ざければ枯れてしまうような。日差しを浴びなければ萎れてしまうような。
 水を与えなければ渇いてしまうような。水を与えすぎれば根を腐らせてしまうような。
 それは絶妙なバランスで調整された奇跡のような立ち位置。
 思えばそれは、向笠にも共通していることだ。
 今、ここに居られることが、偶然と偶然の積み重ねでしか起こりえない事象。
 僅かにバランスが狂うだけで、もう彼女らは自決してしまいかねない。
 そんなギリギリのバランス。
 だけれども、少なくとも今この瞬間は、ここに居る。
 挫けることもなく。手折れることもなく。
 懸命にその花を咲かせている。
 断崖で花弁を揺らすその花は何故こんなにも美しいのだろう。
 それは、死と隣り合うからこその美なのか。
 あるいは、死に近しいからこその美なのか。
 その花が今、目の前に咲いているのだ。
 それに手を伸ばすのは、最早自然の摂理であると言ってもいいだろう。
 だが、その花はあまりにも脆い。
 手を差し伸べるにも細心の注意を払う必要がある。
「……理由を、訊いてもいい……?」
 天壌が辿々しく質問を投げ掛けると、硫崎は少し俯いたのち、頷くように目を伏せた。
「……あまり、楽しい話題ではありませんが……」
 そう、注釈を付けてから、硫崎はゆっくりと語り出した。


「私は、妾の子でした……」


「幼い頃は何も知りませんでした。ただ、周りのお友達にはみんな、お父さんという方がいました。お母さんというものの他に、お父さんという方がいるのだと」

「私は母に尋ねました。『どうして私にはお父さんがいないの?』 ……母は私をぶちました。どうして? どうして? 問うたびにぶたれて、ようやく私は悟りました。きっとそれは訊いてはならないことなのだと」

「私には父がいない。そのことが恥ずかしくて。私は段々と人付き合いが苦手になっていきました。『お父さん』という単語が会話に登場するたびに曖昧に笑ってごまかす日々は相当にうんざりするものでした。それでもなんとか学校生活は送れていましたが、いつの間にか私にとって学校は楽しいものではなくなっていました」

「やがて母は病に伏せるようになりました。中学生にあがったばかりの頃でした。病床の母は、吐瀉物と一緒に怨嗟の類を吐き捨てるようになりました。『あの男が憎い』、『あの男が憎い』と譫言のように呟いていました」

「『あの男』とは誰なのか。その時の私には知るよしもありませんでした。ただ、段々と衰弱してゆく母を、他人事のように眺めていました」

「あまり悲しいとは感じませんでした。おかしいですよね、血の繋がった母親だというのに……。でも、それも仕方ないのかもしれません。昔から母は荒んだ生活を送っていました。狂ったようにブランド物のバッグを買い漁り、毎夜遅くまで酒に溺れていたのですから」

「生活費は有り余っていたようです。今思えばそれも当然のことだったのでしょう。父親が誰なのかを黙秘することを条件に、多額の養育費を受け取っていたようですから」

「働かずに贅沢を尽くし、そのお金で雇われたベビーシッターに育てられた私が、母に懐く道理などあるわけもないのでした」

「やがて母は死に、私は路頭に迷いました。家族から縁を切られていた母には身寄りというものがありませんでした。私を引き取ってくれたのはとある名家の当主様でした」

「私は当主様に問いました。『今度は誰を母と呼べば良いですか? ひょっとして、父はあなたですか?』」

「その発言に激昂したのは当主夫人の女でした。思い切り頬をぶたれて、けれどその時、私はニタリと笑っていたように思います」

「だって、そっくりだったんですよ。ヒステリックに喚いて、叫んで。死んだ母にそっくりでした。そんな義母を止めようと駆け寄る義父は、なんだかすごく懐かしいような気がして」

「それで、なんとなく分かったんです。ああ、この人が、私の『お父さん』なんだって」

「でも、だからといって特に何もすることはありません。家族と言ってもたかが家族でしかありません」

「身寄りのない私を引き取ってくれはしたものの、それが果たして善意かどうか。もしかしたら良心の呵責かもしれませんね。本当にどうでも良いことですが」

「もちろん感謝していますよ? 家も食べるものも明日着る服もないなんて、大変ですし。だからそれを与えてくれたことにはとても感謝しています」

「だけど」

「その生活は、やはり幸福とは言いがたいものでした」

「義理とはいえ、名家で育てられるのですから、当然、高い教養が求められます。私は学校の勉強も頑張らなきゃいけませんでしたし、テーブルマナーなどもとことん叩き込まれました」

「特に義母はスパルタでした。食器の持ち方を少し間違えただけで、すぐに私の手元をはたくんですから、私の手の甲はいつも真っ赤でした」

「それを見ていた義父も、メイドも、誰も私をいたわってはくれませんでした」

「私の居場所は学校にも、家にもありませんでした」

「義母は言いました。『お前には穢らわしい血が紛れている! 行儀を守れないのはその所為だ!』って」

「ぶたれる度に、何度も。何度も。言われました」

「結局、全てはこの血の所為なのでしょう。だから義母は怒る。義父は口ごもる。メイドも何処かよそよそしいし、学校では煙たがれる」

「全部、全部、この血の所為です。だったら全部流れ去ってしまえば良い。全部。全部。全部ッ!」

「私はこの血が嫌いです。大嫌いだった母のこの血が。義母に忌み嫌われるこの血が。私を不幸に陥れるこの血が!」

「全ては、私が生まれてきてしまったことが原因なんです。私さえ生まれて来なければ、母も、父も、義母も、幸せに暮らしてこれたことでしょう」

「けれど、私は死ぬわけにはいかないんです」

「だって、死ねば義父に、義母に、迷惑が掛かってしまうから」

「名家ですから。引き取った孤児を自殺させては外聞に響くことでしょう」

「けれど、生きるのも辛いんです。だって、私は、この血が憎いんです」

「だから、やっぱり私のことは、放っておいてください。求めてくれるのは嬉しいですけど、本当に泣きそうなくらい嬉しいですけど。でも、きっと。貴女を苦しめることになるから」

「私の血は、皆を不幸にするから」


 硫崎はそこまで告げると、俯いて鼻を啜った。……きっと、泣いているのだろう。
 天壌はというと、そんな、さめざめと頬を濡らす少女を見下ろし、密かに笑みをこぼしていた。
 天壌は、そっと、硫崎の細い顎を、その白い指でなぞる。
 「ん……」と僅かに甘い吐息がこぼれる。
 その小さな顎は美しい造型をしていた。透き通るような肌から柔らかい体温が伝わってくる。
 そして。その中央には花弁を散らしたような口唇がある。赤くて、仄かに肉づいた唇だ。
 天壌はグッと胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。
 気づいたら、もう、動いていた。
 触れ合う唇と唇。漏れる吐息が鼻に掛かる。
「私は、幸せよ。とても」
「え、……あ。……そのッ――」
 天壌は再び、その顎を引き寄せて、密事を続行した。
 その舌先で、硫崎の温もりを感じながら、天壌は静かに燃えていた。

 ――不幸に出来るものなら、してみなさいよ……ッ!!

第二話"自傷衝動"⑨次々々々文

「……きょ、今日から……こここの部活に、……お、お世話になります。りゅ、りゅりゅ硫崎茉水です。えと、その……、よろしく……おねがいします」


 何度か噛みながらも、私はどうにか初めの挨拶をこなすことが出来ました。自宅で三十六回ほど練習した甲斐がありました。

 私がそう、声を捻り出すと、天壌先輩はくすりと笑っていました。
 それはなんだか、ぞくりとするような寒気のするくらい美しい笑顔でしたが、私は逆に身体が火照っているのを感じていました。

 おそらく私は、もう二度とフラットな気持ちで天壌先輩を視ることは出来ないのかもしれません。
 だって、こんなにも、心が色めき立っているのだから。


 ……そんなやりとりを、天壌先輩の微笑よりも鋭く冷たい眼差しで見つめていたのは向笠先輩でした。
 栗色の髪がまあるいシルエットを作り出していて、その容貌はとても可愛らしく写ります。
 ですが、その視線だけが、異様に恐ろしい雰囲気を醸し出していました。


「この部活は、……あたしとミコト様だけの部活だったのに…………」


 その声は見た目だけは見目麗しい女の子が、吐く台詞とはとても思えない『箔』があったように思います。

 あまりにも重々しい熱量と、あまりにも毒々しい声音。
 私は、思わず、腰が引けてしまいます。

 それを遮るかのように、細い清廉の声が響き渡りました。


「あらあら。向笠さん、そんな寂しいことは言わないであげて」


 向笠先輩の剣呑とした気配を物ともしていないのか、はたまたそれに気づかないほどに鈍感なのか、天壌先輩は微笑を携えたまま、一歩前へ歩み出します。

 自然、距離が近づきます。私の鼓動が、途端にドクンと跳ね上がります。


「私はね、向笠さん。貴女のことが好きよ。貴女のことが大好きよ。

 けれど、私はそれだけではないみたい。


 私はね、向笠さん。私は、向笠さんみたいな人が好き。

 うん、大好きなの。


 硫崎さんも貴女にそっくりだわ。

 とっても可愛い。


 愛しくて愛しくて、たまらないの。


 だから、思ったの。


 こんなふうな女の子たちに囲まれたら、一体どれだけ幸せなんだろう……って」


 それは陽光のように天から降り注ぐような声で告げらた言葉でした。


「そんな……。あたしは、ミコト様の物じゃなかったの?」


 向笠先輩は、肩を落として、細々とした訴えを投じます。
 そんな先輩に、天壌先輩はそっと歩み寄り、その肩を抱きます。

 優しくいたわるように。

 あるいは、占有するかのように。


「何言ってるの? 貴女は私の『物』でしょう? 口答えするなんておかしくない?」


 クスクス、クスクスクスクス……ッ


 鈴を鳴らしたような可愛らしい笑い声が、部室に響き渡りました。
 それは、背筋を凍らせるような、綺麗で、壮麗な音色を奏でていました。

 私は、一瞬、それが人の声であることすら忘れて、聴き入ってしまっていました。

 聴き入っていただけではありません。


 私は、目で、耳で、肌で、匂いで、味覚で、気配で、あらゆる感覚器官からその情報を受け取っていました。
 その全てを甘受していました。

 私は、満たされていました。

 その私の正面で、彼女もまた。
 向笠先輩もまた、満たされているようでした。

 こんなふうに愛されるのなら、私も道具に生まれ変わりたい。

 私は、そんなふうに思うのでした。

第三話"加虐体質"へ続く――》

第一話 あとがき

◆第一話あとがき
・序文とか
初っ端からアレな文章で申し訳ありません。
これは『自殺することで誰かを攻撃する』というお話を思いついたので速攻書いてみた走り書きそのままとなっております。
読みやすい文章とかもちょっと考慮しているような気もします。
とはいえ内容がアレすぎて読みやすいとかそういうレベルではないような気もします。
なんか本当にすみません。
ですが正直に申し上げまして、書いててすごく楽しかったです。本当に申し訳ありません。

・前編
ここは序文を書いてからしばらくしてふと書き始めたものになります。
当時は序文で完結のつもりでした。
ただ、時間が経って、もうちょっと救いを用意したいと言いますか、もう少し彼女を描写して上げたくなったわけです。
さらには、病んだ女の子たちがいっぱい出てきて、助け合うでもなく傷つけ合うでもなく、なんかまったりと病んだまま生きていくクラブ活動を書いてみたくて、シリーズ化しました。

・天壌命
ぶっちゃけてしまうと『神栖麗奈は此処にいる(著:御影瑛路/出版:電撃文庫)』の神栖麗奈の影響をめちゃくちゃ受けてます。もうパクリなんじゃなかろうか、というくらい。
美しすぎて怖い感じの子です。
天壌は神栖と比べるとまだ普通の子といった印象ですが、雰囲気は意識しました。すみません。好きなんだもの。
『神栖~』は僕の書く話とは比べものにならないくらい重たい話ですので興味があったら是非お手にとってくださいませ。このお話が好きな方なら気に入って頂けるはず。
ちなみに、外見は色っぽく艶っぽい感じ。逆に喋り方は幼い感じです。「あのね、私ね、あのね……」と言った感じ。このギャップが萌えです。間違いありません。
この作品に出てくる子はみんなコミュ障なので、みんなトークが下手という設定。

・後編
天壌視点。
どうやって手帳パクったの? という疑問を僕自身が抱いたので書いてみました。
恋心の描写が唐突すぎやしないか、それが心配な点のひとつです。
『恋は突然に』とか『恋に理屈はない』とか言いますし、ギリギリ理解不能ではないかと思います。いや思いたいです、はい。

・次回
自傷衝動というタイトルが確定してます。
相変わらずなんだか物騒ですが、頭のおかしなちょっとヤバイ女の子をいっぱい書きたい、というのがこのお話のコンセプトなので、お許しください。
こちらの子も可愛い子に仕上がる、予定です。がんばる。
あ、ちなみに。もしかしたら間に間章を挟むかもしれません。そのときはよろしく見てやってください。お願いしますぺこりー。

第二話 あとがき

・テーマというかなんというか
なぜだか知りませんが、自傷する少女というものにはどこか不思議な魅力があるように思います。
ミコト様みたいに傷口ペロペロしたいだとか、そこまで上級者じみた発言がしたいというわけではありませんが、(というかバイ菌入るのでやめましょう)
なんだかどことなく美しさを感じます。もしかしたら僕が希少なだけかもしれませんが。
そんなわけで、主役は自傷少女、茉水さんに決定しました。
あとは序文を書いてるときに不覚にもちょっと萌えてしまいまして……。もうこれ、やるしかないな、と。

・序文
丁寧語で可愛らしく自傷するという暴挙に出ました。
個人的に超可愛い文章になったなーと。
あと、もし声優の花澤さんあたりに朗読してもらえたら、作者は思わず昇天してしまうかもしれません。
今回はわりと傑作だと思ってます。思うだけなら自由です、はい。

・②
ただのババ抜きがここまでエロくなるとは……。
こういうのが書きたくて始めたシリーズです。
引かずにお楽しみいただければ幸いです。

・③
ちょっとずつ明かされる茉水さんの秘め事。
もうちょっと一気にバラしても良かったかなと思わなくもありません。
こういうのは難しいなと改めて痛感しました。
茉水さんと違って作者は秘め事が苦手でして……。
どうしても一気に語っちゃうか、今回みたいに焦らしすぎるかの二択になります。
むぅ……。

・④
二度目の出逢いです。
しっかり名前も洗い出してるところはさすがのミコト様です。

・⑤
何故かペロつくミコト様。
なにやってんのー?

・⑥
テコ入れ。というわけでもありませんが、ちょっと振り返っています。
④とほとんど一緒ですが、色々と伏線を張ったり張らなかったり。
ホントは④でこういう流れにしておけば良かったんじゃなかろうか。ホントに構成がへたくそで申し訳ありません。
心情を追うか、手段を追うかの違いになってます。いちおう。
もうちょっとで終わるはずですのでご辛抱いただければ、と。

・⑦
硫崎陥落。というお話。
これから硫崎の内情をようやく描けます。長かった……。もう少しだぜ!

・⑧
唐突に空気感が変わったので戸惑われたかもしれませんが、ようやく物語は核心まで辿り着けました。
当初から考えていた設定でしたが、あとから見返すと、前話までとちょっと食い違っている箇所があるかもしれません。
もし、そのような感想を抱かれたのなら、それは間違いなく亘里の力量不足です。精進します。
あと一篇くらいで第二話は終われそうです。
小刻みに更新すれば間を開けずに更新できるかな、という目的で細切れにしてお送りしましたが、正直ちょっと細かくしすぎたかな、と反省しています。
というかプロット練っとくべきでした。勢いに任せすぎでした。
急激に進展した【病み攻め】天壌×【へたれ受け】硫崎でしたが、向笠さんはどうなるんでしょうねw
次回乞うご期待、ということでどうか一つ。(まだプロットすら練ってないけど)

・⑨
どうにか終わりました。ここまでお読みいただきありがとうございました。
毎度毎度のことですが、やっぱり今回のお話もだいぶしんどかったです。
学んだこととしては、プロットは大事だということです。
シナリオを想定通りに進めるにはやはり綿密な航海計画が必要のようです。
これだけ小刻みに長々と続いてしまったのはひとえにそのあたりに原因があると思います。
相変わらず狂った連中ばかりのお話ですが、今後もこんな調子で続く予定です。
変態ばかりのこのお話を、また楽しんでもらえたら嬉しいです。

・次回予告
加虐体質というタイトルはとりあえず決定です。
自己中→リストカット……と来ているので、次はイジメっぽいです。
あんまり重くなりすぎず、かといって軽いわけでもない絶妙(?)なラインを狙い撃ちするという、まぁいつも通りのお話になります。
他にもいくつかネタはあるので、落ち着いたら続きを書きます。……しばらくは休むけど。
それでは、「気が向いたらまた読んでやらんこともないと見せかけて実はそうでもなさそう」な感じの方も良ければまたお付き合いください。

第三話"加虐体質"へ続く――》